2006年07月
2006年07月29日
■総裁選いよいよ本格化
9月20日施行の自民党総裁選挙に向け全国にさきがけて東京ブロック大会が開催され、安倍晋三官房長官、麻生太郎外務大臣、(ビデオ出演)、谷垣禎一財務大臣と東京都連を代表して与謝野馨 経済財政政策、金融担当大臣がパネラーとして出席し、ニューリーダーとして、「この先の日本」を語った。
私は都連幹事長代理として司会を務める事になったが、なにせ総裁候補予定者が一同に会す大会は初めてという事もあり来場者は5000人を超えマスコミの注目も高く来賓対応やお客様が混乱のないよう、絶対成功を至上命令として緊張の中での大役となった。
コーディネーターは石原伸晃都連会長が務め、外交、首都東京の役割、教育、そしてこれからの日本といったテーマでプロ顔負けの進行をしたがどうしても身内として相手が困るような深堀りはできずマスコミ的には手ぬるいパネルディスカッションという評価になるかも知れない。
安倍官房長官の人気はゆるぎないが前日に正式に出馬表明をされた谷垣財務大臣が歯切れ良く、改めて来場者には好印象を与えたと思う。パネラーを引き受けた与謝野大臣もこれからは候補の一人として取りたてられるのは必至で暑い夏になりそうだ。私はこの東京ブロック大会前の出馬表明を促していた一人だが当時は福田先生の問題もあり、8月後半から短期決戦というスケジュールを変えられなかった。
当日は立川の福祉施設への視察に同行し、親と離れて暮らす子供達の生活ぶりにふれたり、卒園生の成人との意見交換を行った。さぞさびしい思いをしているんだろうと思って訪れたが、皆んなたくましく、一人っ子より大家族で暮らす良い部分もあると感じた。しかし思春期等にはやはり悩む子も多く指導者の育成に国としての支援を求められた。
その後、党本部で行われた再チャレンジのタウンミーティングには都議会自民党49名全員が揃って安倍内閣実現を決起してくれた。本来ならここで出馬表明しプロック大会へ移行する絵を描いていたのだが・・・・・
いずれにしてもここは最年少の総裁候補として永田町の都合よりもう少しはっきり、さわやかに意志を示して党員、国民の審判を仰ぐ方が良いと思うし多くの支持者もそれを望んでいると思う。
私の最後の仕事はメイン会場に集まった3000人の方をパーティ会場に分散して案内することで、既にパーティ会場でモニターで見ていた2000人とのバランスをとりながら、皆さんに移動していただくのに独演会を行う始末。一人会場に残り壇上でマイクを持った私に多くの人がねぎらいの声をかけていただき汗びっしょりで任務は無事終了した。
私は都連幹事長代理として司会を務める事になったが、なにせ総裁候補予定者が一同に会す大会は初めてという事もあり来場者は5000人を超えマスコミの注目も高く来賓対応やお客様が混乱のないよう、絶対成功を至上命令として緊張の中での大役となった。コーディネーターは石原伸晃都連会長が務め、外交、首都東京の役割、教育、そしてこれからの日本といったテーマでプロ顔負けの進行をしたがどうしても身内として相手が困るような深堀りはできずマスコミ的には手ぬるいパネルディスカッションという評価になるかも知れない。
安倍官房長官の人気はゆるぎないが前日に正式に出馬表明をされた谷垣財務大臣が歯切れ良く、改めて来場者には好印象を与えたと思う。パネラーを引き受けた与謝野大臣もこれからは候補の一人として取りたてられるのは必至で暑い夏になりそうだ。私はこの東京ブロック大会前の出馬表明を促していた一人だが当時は福田先生の問題もあり、8月後半から短期決戦というスケジュールを変えられなかった。
当日は立川の福祉施設への視察に同行し、親と離れて暮らす子供達の生活ぶりにふれたり、卒園生の成人との意見交換を行った。さぞさびしい思いをしているんだろうと思って訪れたが、皆んなたくましく、一人っ子より大家族で暮らす良い部分もあると感じた。しかし思春期等にはやはり悩む子も多く指導者の育成に国としての支援を求められた。その後、党本部で行われた再チャレンジのタウンミーティングには都議会自民党49名全員が揃って安倍内閣実現を決起してくれた。本来ならここで出馬表明しプロック大会へ移行する絵を描いていたのだが・・・・・
いずれにしてもここは最年少の総裁候補として永田町の都合よりもう少しはっきり、さわやかに意志を示して党員、国民の審判を仰ぐ方が良いと思うし多くの支持者もそれを望んでいると思う。
私の最後の仕事はメイン会場に集まった3000人の方をパーティ会場に分散して案内することで、既にパーティ会場でモニターで見ていた2000人とのバランスをとりながら、皆さんに移動していただくのに独演会を行う始末。一人会場に残り壇上でマイクを持った私に多くの人がねぎらいの声をかけていただき汗びっしょりで任務は無事終了した。
hagiuda1 at 08:11|Permalink│
2006年07月22日
■国会決議の重み
母の葬儀を挟み八王子滞在が続いたが、しばらくぶりに議員会館に出向いた。ご心配いただいた先輩や同僚への会葬御礼に廻る一方で国は人事異動の時期でもあり、退任、新任の挨拶に役人の皆さんが出入りする。もちろん全省庁ではなく、私と関係のある方々だが、それでも毎年その数は増え責任の重みを感じる。又、マスコミの皆さんも弔問を兼ね総裁選や天皇陛下の靖国発言問題等の取材が続き、あわただしい永田町に一気に戻った。
陛下も様々な思いはお持ちだったと思うし人の好き嫌いも多少はあって当たり前だと思うが、ご自身の発言の重みを常に承知をして慎重なお言葉を公の場で選ばれてきたお気持ちを考えると元宮内庁長官のメモというのは真偽はともかくとして、この時機の公表に胡散臭さを感じずにはいられない。いかなる事態になっても皇室を政争の具にする事は私は良い事だとは思わないとだけコメントした。
もう一つ私がこだわっている事は国会決議の重みだ。東京裁判という戦勝国が敗戦国を裁くという世界に類を見ない事後法の裁判の正当性もさることながら、いずれにしても昭和27年の恩給法改正も含め国内的にはA級B・C級の区別なく軍の指導者であっても一般軍人であっても又処刑であっても公務死という扱いをする国会決議が昭和28年には全会一致で可決されている。すなわち立法府の判断ではいわゆるA級戦犯というものはすでになくなっていると解釈できる。ここではこれ以上の記述は言葉足らずで誤解を受けるといけないのでやめておくが、要は数少ない戦後の国会決議を後世の政治家が勝手に判断できるとすれば直近の“首都移転決議”などは何の効果のないもので心配するに足りないものだ。それでもその国会決議を根拠に移転候補地の3地域は今年も莫大な血税を投じて受け皿づくりに奔走しているし、反対の都もまた対策費を投じて多くのパンフレットや専属職員を配している。
安易?に決議をする国会がいけないのか決議を重んじない国会がいけないのか都合で解釈を変える国会がいけないのか、ここは国会決議というものの重みも考える必要がある。
陛下も様々な思いはお持ちだったと思うし人の好き嫌いも多少はあって当たり前だと思うが、ご自身の発言の重みを常に承知をして慎重なお言葉を公の場で選ばれてきたお気持ちを考えると元宮内庁長官のメモというのは真偽はともかくとして、この時機の公表に胡散臭さを感じずにはいられない。いかなる事態になっても皇室を政争の具にする事は私は良い事だとは思わないとだけコメントした。
もう一つ私がこだわっている事は国会決議の重みだ。東京裁判という戦勝国が敗戦国を裁くという世界に類を見ない事後法の裁判の正当性もさることながら、いずれにしても昭和27年の恩給法改正も含め国内的にはA級B・C級の区別なく軍の指導者であっても一般軍人であっても又処刑であっても公務死という扱いをする国会決議が昭和28年には全会一致で可決されている。すなわち立法府の判断ではいわゆるA級戦犯というものはすでになくなっていると解釈できる。ここではこれ以上の記述は言葉足らずで誤解を受けるといけないのでやめておくが、要は数少ない戦後の国会決議を後世の政治家が勝手に判断できるとすれば直近の“首都移転決議”などは何の効果のないもので心配するに足りないものだ。それでもその国会決議を根拠に移転候補地の3地域は今年も莫大な血税を投じて受け皿づくりに奔走しているし、反対の都もまた対策費を投じて多くのパンフレットや専属職員を配している。
安易?に決議をする国会がいけないのか決議を重んじない国会がいけないのか都合で解釈を変える国会がいけないのか、ここは国会決議というものの重みも考える必要がある。
hagiuda1 at 16:39|Permalink│
2006年07月15日
■陳水扁総統と会談をしました。
私をお支えいただく東京ルネッサンス21の川名会長はじめ市商工会議所の副会頭、市観光協会会長等、地元八王子の経済界の皆様と台北を訪問し総統府にお招きいただき、安全保障や観光振興、本年10月に八王子市政施行90周年を記念して高雄市との友好都市締結に向けての前向きな話し合いに予定時間をオーバーしての歓待を受けました。
北朝鮮のミサイル問題直後ということもあり総統は「日米のみならずアジア太平洋地域全体に対する挑発である」と懸念を示され、その上で日米安全保障協議委員会で台湾海峡問題の平和的解決が共通の戦略課題に盛り込まれた事を歓迎すると共に、台湾の軍事購入予算案が国会でなかなか通過しない事に触れられた。又、本市と高雄市の友好締結を高く評価し同席の大串観光協会会長にも多くの国民・市民が相互に往来できるよう協力を求められました。私も「日台の文化、経済、観光の各方面での交流が盛んになる事を願い、スカウト活動やサッカー、野球や音楽、芸術等子供の世代の交流もできれば、更なる理解が深まる」と期待を示しました。さらに、「市内には貴国と縁のある拓殖大学を始め21の大学を有するが先日来日された民進党若手国会議員は米国留学ばかりで残念です。是非八王子で学ぶ学生を応援するので日本への留学を勧めてほしい」と要請しました。又、「ミサイル発射は許せない行為であるがこれを機にアジア太平洋地域と台湾海峡における安全の重要性を周辺各国が再認識する事にもつながり日台の友好の絆が更に深まりましたね」と互いに手を握った。
実は総統府へ入る直前、妻から国際電話が入り母の訃報を聞いた。薄々は覚悟をし、できれば帰国後に近くで看取りたいと願っていたが、叶わなかった。一昨年発症したすい臓がんと病床で戦う母は最期まで“生きる”事への執念を見せ苦痛な治療にも耐えながら、週末しか見舞いに寄れない私の健康を逆に気づかってくれた。
私には1才8ヶ月離れた双子の妹がおり、物心ついた頃には母はこの妹達に独占されてしまい、早くから独立心を養われた。それでも時には母の布団にもぐり込むが両脇は空いておらず、止むを得ず逆さまに足にしがみついて寝たそうだ。家計を助けるため内職でネクタイを縫う仕事を長く続けており学校から帰るとミシンの音に安堵を覚えた。
野球や空手、熱帯魚やオーディオと望む事は何でも理解してやらせてくれ、妹達からは「お兄ちゃんには甘い」と苦情を受けた母だったが過去に三度ほど反対された事がある。
一度目は中学受験で、進学塾へ通う近所の友人達に刺激を受け、自己流で問題集を買い、つるかめ算や植木算のようなテクニックを知らなかったのに有名校の出題が解けた事に勘違いをして熱を上げた。そろばん塾以外行った事がなかったが一度だけ友人に誘われて日曜模試を受けたらすこぶる成績が良くいよいよその気になった。今から思えばきちんとした受験対策もせずに受かるはずはなかったのだがそれでも真っ暗になるまで遊んで帰ってきては自分なりに良く机に向かった。唯一塾に通う友人からの情報を頼みに願書なるものの必要性を知らされ母に話したが、当時父が勤めていた繊維会社が閉鎖をする事となり、転職を余儀なくされた時期と重なり、「とても私立の学校には通わせられない」という経済的理由で断念せざるを得なかった。子供ながらに我家の置かれている危機を少しは理解した。
二度目は高校に入学しバイクの免許を取りたいと言ったがこれには猛反対をした。元々野球をやりたくて行った高校の部活を早くに辞めてしまった直後で「野球部にいればバイクは乗れなかったはず」という母の主張だ。前年に王二世と呼ばれ1年生で甲子園へも行った一つ年上の阿部さんがバイク事故で亡くなった事もあり学校でも禁止をしていた頃の事でしょうがなく内緒で教習所へ通い取得した。先輩から中古のバイクを譲ってもらう事とし、家へ乗り帰ると改造したマフラーもうるさく「中古ではあぶない」という理由であちこち改造しない事を約束し母に借金をする形で新車を購入してもらった。確か最初の2〜3ヶ月バイトで返済したがその後はうやむやになった。
最後は政治家を志し、選挙にでる決心をした時でこれには下積みの時代を見守ってもらい周囲の勧めもあって後に理解を示した。今とは政治環境が異なり地盤・看板・カバンが例え地方議会といえども条件の頃で家や土地を勝手に担保にするのではないかと心配し、母も半信半疑でいたが「無茶はしないでダメなら他の仕事に就く」とうそぶいて反対を抑えた。何かで母と言い合いになった時、声を荒げる私に「自分の主張ばかりで相手の意見を聞けなきゃ政治家などなれない」とビシッと言われたのが懐かしい。
そんな母だがいよいよ選挙になると朝一番から夜は最後まで事務所に陣取り、私の代わりにあちこちの町会の方々とともに挨拶廻りにがんばってくれ、6回の選挙を共に戦い抜いてきた同志でもある。家族中が少しは痩せるのに母だけは選挙が終わっても痩せないのが自慢だった。
70才は本人も無念だったと思うが多くの皆さんに温かく見守られ、旅行やフラダンス等、仲間の皆さんとあちこちへ出かけられ充実した人生だったと思いたい。
親しくお付き合いいただいた友人の皆様はじめ終始万全の治療をしていただいた東海大病院関係者、セコンドをしてくれた医師会の先生方、生前お世話になった全ての皆様に心からの感謝を申し上げたい。
総統府へ入ると頭が真っ白になった。こみあげる悲しみにその場を逃げ出したい衝動に駆られたがなぜか母の「日本の為にがんばって」という笑顔が浮かび、背中を押された感がした。正式国交がない国とはいえ、私のような駆け出しの政治家と真正面から誠意を持って会談をいただける陳総統の人柄に感謝しつつ八王子織物のオリジナルネクタイ、マルベリーブリッジを川名会長が代表して手渡し、記念撮影で会談は無事終了した。
唯一事情を知っていた白柳事務局長が旧知の林国家安全保障会議委員に耳打ちをしてくれたらしく帰りがけに涙を浮かべ皆さんがおくやみを言ってくださった。総統の配慮で午後一番の飛行機を直ちに手配いただき空港へ送っていただく事になった。あわててホテルへ戻り荷造りをしていると久しぶりの涙が止まらなくなった。
母の最期に立ち会えなかったが、きっと理解してくれると信じ今回の訪台がほんの少し「日本の為」にもなるよう今後の努力を誓う。
北朝鮮のミサイル問題直後ということもあり総統は「日米のみならずアジア太平洋地域全体に対する挑発である」と懸念を示され、その上で日米安全保障協議委員会で台湾海峡問題の平和的解決が共通の戦略課題に盛り込まれた事を歓迎すると共に、台湾の軍事購入予算案が国会でなかなか通過しない事に触れられた。又、本市と高雄市の友好締結を高く評価し同席の大串観光協会会長にも多くの国民・市民が相互に往来できるよう協力を求められました。私も「日台の文化、経済、観光の各方面での交流が盛んになる事を願い、スカウト活動やサッカー、野球や音楽、芸術等子供の世代の交流もできれば、更なる理解が深まる」と期待を示しました。さらに、「市内には貴国と縁のある拓殖大学を始め21の大学を有するが先日来日された民進党若手国会議員は米国留学ばかりで残念です。是非八王子で学ぶ学生を応援するので日本への留学を勧めてほしい」と要請しました。又、「ミサイル発射は許せない行為であるがこれを機にアジア太平洋地域と台湾海峡における安全の重要性を周辺各国が再認識する事にもつながり日台の友好の絆が更に深まりましたね」と互いに手を握った。実は総統府へ入る直前、妻から国際電話が入り母の訃報を聞いた。薄々は覚悟をし、できれば帰国後に近くで看取りたいと願っていたが、叶わなかった。一昨年発症したすい臓がんと病床で戦う母は最期まで“生きる”事への執念を見せ苦痛な治療にも耐えながら、週末しか見舞いに寄れない私の健康を逆に気づかってくれた。
私には1才8ヶ月離れた双子の妹がおり、物心ついた頃には母はこの妹達に独占されてしまい、早くから独立心を養われた。それでも時には母の布団にもぐり込むが両脇は空いておらず、止むを得ず逆さまに足にしがみついて寝たそうだ。家計を助けるため内職でネクタイを縫う仕事を長く続けており学校から帰るとミシンの音に安堵を覚えた。
野球や空手、熱帯魚やオーディオと望む事は何でも理解してやらせてくれ、妹達からは「お兄ちゃんには甘い」と苦情を受けた母だったが過去に三度ほど反対された事がある。
一度目は中学受験で、進学塾へ通う近所の友人達に刺激を受け、自己流で問題集を買い、つるかめ算や植木算のようなテクニックを知らなかったのに有名校の出題が解けた事に勘違いをして熱を上げた。そろばん塾以外行った事がなかったが一度だけ友人に誘われて日曜模試を受けたらすこぶる成績が良くいよいよその気になった。今から思えばきちんとした受験対策もせずに受かるはずはなかったのだがそれでも真っ暗になるまで遊んで帰ってきては自分なりに良く机に向かった。唯一塾に通う友人からの情報を頼みに願書なるものの必要性を知らされ母に話したが、当時父が勤めていた繊維会社が閉鎖をする事となり、転職を余儀なくされた時期と重なり、「とても私立の学校には通わせられない」という経済的理由で断念せざるを得なかった。子供ながらに我家の置かれている危機を少しは理解した。
二度目は高校に入学しバイクの免許を取りたいと言ったがこれには猛反対をした。元々野球をやりたくて行った高校の部活を早くに辞めてしまった直後で「野球部にいればバイクは乗れなかったはず」という母の主張だ。前年に王二世と呼ばれ1年生で甲子園へも行った一つ年上の阿部さんがバイク事故で亡くなった事もあり学校でも禁止をしていた頃の事でしょうがなく内緒で教習所へ通い取得した。先輩から中古のバイクを譲ってもらう事とし、家へ乗り帰ると改造したマフラーもうるさく「中古ではあぶない」という理由であちこち改造しない事を約束し母に借金をする形で新車を購入してもらった。確か最初の2〜3ヶ月バイトで返済したがその後はうやむやになった。
最後は政治家を志し、選挙にでる決心をした時でこれには下積みの時代を見守ってもらい周囲の勧めもあって後に理解を示した。今とは政治環境が異なり地盤・看板・カバンが例え地方議会といえども条件の頃で家や土地を勝手に担保にするのではないかと心配し、母も半信半疑でいたが「無茶はしないでダメなら他の仕事に就く」とうそぶいて反対を抑えた。何かで母と言い合いになった時、声を荒げる私に「自分の主張ばかりで相手の意見を聞けなきゃ政治家などなれない」とビシッと言われたのが懐かしい。
そんな母だがいよいよ選挙になると朝一番から夜は最後まで事務所に陣取り、私の代わりにあちこちの町会の方々とともに挨拶廻りにがんばってくれ、6回の選挙を共に戦い抜いてきた同志でもある。家族中が少しは痩せるのに母だけは選挙が終わっても痩せないのが自慢だった。
70才は本人も無念だったと思うが多くの皆さんに温かく見守られ、旅行やフラダンス等、仲間の皆さんとあちこちへ出かけられ充実した人生だったと思いたい。
親しくお付き合いいただいた友人の皆様はじめ終始万全の治療をしていただいた東海大病院関係者、セコンドをしてくれた医師会の先生方、生前お世話になった全ての皆様に心からの感謝を申し上げたい。
総統府へ入ると頭が真っ白になった。こみあげる悲しみにその場を逃げ出したい衝動に駆られたがなぜか母の「日本の為にがんばって」という笑顔が浮かび、背中を押された感がした。正式国交がない国とはいえ、私のような駆け出しの政治家と真正面から誠意を持って会談をいただける陳総統の人柄に感謝しつつ八王子織物のオリジナルネクタイ、マルベリーブリッジを川名会長が代表して手渡し、記念撮影で会談は無事終了した。
唯一事情を知っていた白柳事務局長が旧知の林国家安全保障会議委員に耳打ちをしてくれたらしく帰りがけに涙を浮かべ皆さんがおくやみを言ってくださった。総統の配慮で午後一番の飛行機を直ちに手配いただき空港へ送っていただく事になった。あわててホテルへ戻り荷造りをしていると久しぶりの涙が止まらなくなった。
母の最期に立ち会えなかったが、きっと理解してくれると信じ今回の訪台がほんの少し「日本の為」にもなるよう今後の努力を誓う。
hagiuda1 at 22:37|Permalink│
2006年07月07日
■北朝鮮にレッドカード
永田町は早朝から大騒ぎとなった。
北朝鮮による合計7発のミサイル発射は我国のみならず、自由主義、国際社会に対する暴挙であり許せない挑戦である。「国際社会の一致した強いメッセージを送る事が重要」という良識ある各国は舞台を直ちに国連安全保障理事会に委ねたが中国とロシアは決議に反対の姿勢で難航している。太陽政策をとってきた韓国、総連との歴史的和解をしたばかりの民団でさえ猛烈な抗議をし、和解撤回を表明した。ウラジオストックの目の前に7発ものミサイルを落とされたロシアの姿勢が残念だ。「こういう時の為にも靖国参拝はやめるべきだ」と話をすりかえる政治家にも呆れる。
さて、我党はその日の午後にはいくつもの会議をこなし、万景峰号の入港を半年止める対抗措置を始め9項目の制裁を決定した。今後も経済制裁を含め効果的な対抗を“国民の怒り”として発信していかなくてはならない。もちろんこの問題で拉致問題を埋没させてはならないよう重ねての抗議も必要だ。サミットの大きな議題にミサイルと拉致が同列に議論される事を強く要望した。又、MD(ミサイル防衛)の配置や国連常任理事国入りの必要性も改めてクローズアップされた。
事なかれ、結論先送りの平和主義ではこの国は守る事はできない事を永田町も国民も感じたはずだ。
北朝鮮による合計7発のミサイル発射は我国のみならず、自由主義、国際社会に対する暴挙であり許せない挑戦である。「国際社会の一致した強いメッセージを送る事が重要」という良識ある各国は舞台を直ちに国連安全保障理事会に委ねたが中国とロシアは決議に反対の姿勢で難航している。太陽政策をとってきた韓国、総連との歴史的和解をしたばかりの民団でさえ猛烈な抗議をし、和解撤回を表明した。ウラジオストックの目の前に7発ものミサイルを落とされたロシアの姿勢が残念だ。「こういう時の為にも靖国参拝はやめるべきだ」と話をすりかえる政治家にも呆れる。
さて、我党はその日の午後にはいくつもの会議をこなし、万景峰号の入港を半年止める対抗措置を始め9項目の制裁を決定した。今後も経済制裁を含め効果的な対抗を“国民の怒り”として発信していかなくてはならない。もちろんこの問題で拉致問題を埋没させてはならないよう重ねての抗議も必要だ。サミットの大きな議題にミサイルと拉致が同列に議論される事を強く要望した。又、MD(ミサイル防衛)の配置や国連常任理事国入りの必要性も改めてクローズアップされた。
事なかれ、結論先送りの平和主義ではこの国は守る事はできない事を永田町も国民も感じたはずだ。
hagiuda1 at 15:49|Permalink│
2006年07月01日
■大学で講師を務める
明治大学で教壇に立った。政治経済学部の安藏教授がコーディネートする総合講座の一環で「少子高齢社会日本の選択」というテーマに沿って4月から12週にわたり若手国会議員がリレーで講師を務める。安藏先生は安倍長官との親交が深く、人口統計学が専門で「少子化問題」や「無党派層研究」等で度々党の部会にも講師としておでかけいただいており、親しくご指導をいただいている。年明け早々に依頼を受け約半年、準備期間があったはずなのが、学生時代と同じで前日にレジュメを提出する始末。かっこよくパワーポイントでの授業をイメージしていたのだがほとんど国政報告会のノリで、果たして学生の評価は・・・?
ちなみに有名な山本一太参議院議員にはじまり、下村先生、同期の西村先生と先週は民主党の前原前代表が務めた。皆さんは外交や経済、教育がテーマで「少子高齢化社会」との関係はそれなりに論理立てて講演ができるだろうが、私にあたえられたテーマは“選挙”。少子高齢化と選挙とはどうむすびつければ良いのだろうか?安藏先生からは、「何のテーマですか?」と聞いた私に「学生達に選挙の話をしてあげて下さい。先生がトリですから、卒業生として少しハッパをかけて下さいよ!」と言われ、「じゃあ、自身の生い立ちとか経験でいいんですね?」とわりと軽いノリで引き受けたのだが、いよいよ間近になって送られてきた資料には「授業の概要・・・20世紀後半のわが国は、良質な労働力の継続的な供給を背景に・・・(中略)・・・いかなる発想で、新しい社会を構築していくべきか・・・。本講は、わが国を代表する新進気鋭の国会議員により『超』少子高齢社会、日本の選択を講じてもらう。これからのわが国のあり方を学生諸君との質疑を通して考えていく・・・」と記されているではないか!!自分の生い立ちを話して笑いを取っても目的を達成できない事に気付いた。しかも唯一の卒業生としてトリというが、なんとなくみそっ子のような感もしなくはない。
いずれにしても光栄な事と思って当日を迎えたが、なるほど学生達はまじめで実に静かである。メモを取る学生もいて、いよいよでたらめな数字も言えなくなった。知的な大学教授というよりはイベントの説明をするサークルのリーダーのような授業になってしまった。校舎もかつての趣は全くなく、リバティタワーという私も10万円寄付してつくった立派すぎる建物の中で行ったのだが、今の学生はうらやましい環境だ。
講義の内容はもっぱら自身の選挙経験や選挙法の矛盾、政治の理想と現実を伝えたつもりだが少子高齢化社会と選挙との関係は自分よがりな結論になってしまった。小選挙区制が、広く支援を受けなくてはならない制度がゆえ、政治家が本当の事や思っている自分なりの価値観を活かせなくなってしまい結果として多様なライフスタイルを認め、日本型家族のスタンダードを失ったとまとめてみたがこれも半分正解、半分不正解のような感じもする。唯一わかっている事は選挙制度は国の形を決める問題でもあるという事だ。
来週は学生諸君から意見を聞く。
講義の内容はもっぱら自身の選挙経験や選挙法の矛盾、政治の理想と現実を伝えたつもりだが少子高齢化社会と選挙との関係は自分よがりな結論になってしまった。小選挙区制が、広く支援を受けなくてはならない制度がゆえ、政治家が本当の事や思っている自分なりの価値観を活かせなくなってしまい結果として多様なライフスタイルを認め、日本型家族のスタンダードを失ったとまとめてみたがこれも半分正解、半分不正解のような感じもする。唯一わかっている事は選挙制度は国の形を決める問題でもあるという事だ。
来週は学生諸君から意見を聞く。
hagiuda1 at 19:03|Permalink│