2006年08月

2006年08月29日

■涙の初優勝

 母校早実が88回大会にて悲願の初優勝を果たした。八王子にグランドを開設(永田町見聞録2月3日参照)した1期生がエース斉藤君達で、3年目にして大きな成果を実らせた。南大沢駅前の横断幕は春の選抜出場が決まった時に南大沢商店街(淡路会長)や八王子早稲田会(山田会長)と早実OBの有志でお金を出し合い作ったものだが、夏にも使える事を信じて「選抜」とは書かずに「甲子園」と記し、「南大沢から全国制覇」と願いとハッタリを込め作ったが、現実になってしまった。大慌てで「出場」の上に「優勝」を貼り付け、国分寺に負けないお祝いムードが続いている。
 「今年は是非甲子園へ行って26年前の忘れ物を取りに行こう」と出場決定直後からあちらこちらで盛り上がり、特に準優勝の時の在学生だった私の上下1学年は連日、入れ代わりの大集合で夏を大阪で過ごす家族もたくさんいた。私も息子と準々決勝を観に行ったのが最後でその後は仕事の日程が入り甲子園を後にした。よもやの決勝進出が決まったが相手は駒大苫小牧。昨年までは八王子の姉妹都市である同校を応援したが、今さらそんなことは言っていられない。地元事情に詳しい記者からは「どちらに勝ってほしいですか?」と質問され、盆踊り会場であった市長には「ぼくはちゃんと早実と言っておいたんで市長も頼みますよ」と会話をし、春の選抜出場の際、市長に報告に来た後藤キャプテンや斉藤君と旧知の仲の市長も「やっぱり早実だよな」と言ってくれたが翌日の紙面では「本市との縁の深い両校が決勝で対戦する事は市民として誇らしい」と政治家のようなコメントを出され裏切られた(笑)
 さて、何とか応援に行きたかったが当日は数ヶ月前から党青年局の代表として熊本県連で講演をしなくてはならず、又、光栄にも代理のきかない指名の講師だったのであきらめて党務に汗する事にした。それでも未練たらしく帰りの飛行機を13時発の神戸行きに変更してもらい15時には甲子園に着くスケジュールで出発した。勝っても負けても同窓の皆さんと会いたかったし、自分自身が携わったグランドで育った最初の後輩達に特別なシンパシーを感じていたからだ。
 事務局に便を変更したことを伝えた折、その理由を言ったせいで熊本県連の皆さんは恐縮してくださり、「本当はキャンセルしたかったでしょうが私達との友情を大切にしてくれた萩生田代議士です。昨日までは鹿児島工業を応援していましたが今日はみんなで早実の応援をしましょう」と司会の馬場県議が笑いと共に持ち上げてくれ、講演を盛り上げてくれた。
 こういう時に限って飛行機の搭乗が遅れ熊本空港のテレビで1回の攻守を観る事となった。あきらめながら球場に着くと試合は7回。何とそれから15回まで続くとは思いもよらず、結局は翌日の予定を全てキャンセルし、再試合は最初からの応援となった。
優勝の瞬間は渡辺校長と抱き合って大喜び、終了後は勝利の美酒に酔いしれた。
「明日から仕事だから軽く一杯にしよう」と皆が口々に言いながら新大阪駅に近い居酒屋に陣取ったが、先輩、後輩と次々に膨れ上がり一番まともだった私が時計を見ながら会計を務めた。東京へ戻る新幹線があと数本のところでどうにかお開きになったが宴席は車中に移り、車掌からは「遅い時間なのでもう少し静かにして下さい」と注意を受ける仲間を笑いながらなだめた。
 銀行員や商社マン、皆んな一流企業に勤めるエリートサラリーマンだったり、青年実業家として社長をしてがんばっている者もいるがここでは学生時代と何ら変わらない。「次は萩生田のパーティーで集まろう」と先輩が言った。「でも政治家のパーティー会費高いから〜」、「いいじゃねぇか甲子園行ったと思えば」、「そうだ、領収書も出るし」いつのまにか自分がつまみになり男のおしゃべりは続いた。誰もが後輩達に貰った勇気と感動を胸に明日から企業戦士に戻るだろう。大輔が活躍したあの決勝から26年かかったが、かけがえの無い感動を共有できた日本唯一の同窓生として私も皆んなに負けずにがんばろう。


hagiuda1 at 00:43|Permalink

2006年08月12日

■久しぶりの北海道

 町村先生主催の研修会があり久しぶりに北海道へ行った。市議の時代は苫小牧市が姉妹都市ということで、必ずと言っていい程北海道視察があり、札幌には馴染みのジンギスカン屋までできた。

勇払史跡公園(千人同心) ちなみに苫小牧市とは八王子千人同心の縁でつながっている。徳川時代、日光東照宮の火守りだった八王子千人隊は幕末から徐々にその役割が薄まり、その後寛政12年(1800年)より当時募集のあった蝦夷開拓団に参加する事となり、未開の勇払原野の開墾を担当したのが苫小牧や白糠という地だった。厳しい自然環境の中、ひどい凍傷で手足や命も失う者も大勢おり、それでも4年間の努力をし今日の苫小牧の地の礎を開いたそうだ。市のパンフレットには1ページ目に「苫小牧の歴史は八王子千人同心によって始まった…」記述もあり、訪問時には千人隊の墓に必ずお参りする。過酷な北の大地でも八王子の先人の方々が努力し、感謝されていることに誇りを感じる。

 また、この開拓が一区切りついた頃、ロシアの脅威が高まり、根室の「北方警備隊」の募集に加わった方々もいて、そのうちの数名は国後、択捉に渡り生活をされた方もいらっしゃる。八王子の祖先が北方領土の住人である事はあまり知られていないが、そんなご縁もあって私はこの領土問題には長く関わってきている。
とかく閉鎖的な地方都市と思われがちな本市だが、実はフロンティア精神に満ちたDNAがある事を私たちは示していきたい。

 さて、偶然同時期に息子が所属する八王子リトルリーグが東日本大会に東京代表で出場する事になりその会場が札幌麻生球場だった為、予定を一日繰り上げて応援に行った。遠方の為、財政的にも大応援団を送る事もできず、数名の随行していただいた父兄に混ざって決勝戦を応援したが、忙しさにかまけて今までまともに観た事はなかった我が子の試合を観る事がこんなに緊張しこんなに感動する事を初めて知った。ただただご迷惑をかけない事だけを祈ったが、期待以上の活躍でキャプテンとしての役目を果たし、優勝旗を手にする事ができた。その夜は市内の90分焼肉食べ放題の店で祝賀会が行われたが中学生たちはとにかくよく食べる。あの勢いで食べられたらたぶん店は赤字だろう。それでも夜中に部屋に電話があり「北海道のラーメンが食べたい」というので着替えて夜の街へ繰り出し有名店の味噌バターコーンを平らげた。ベッドへ入ってから腹が減る学生時代を懐かしく思いながら久しぶりに男同士の野球談義に花が咲いた。もっとも夜中にラーメンをスープまで残さず食べる親父の方も結構凄いかもしれない。

 翌日は研修に合流したが、前日から道内にいた理由を、聞いてもいない皆さんにいちいち説明しながらほんの少し息子の自慢話をしている自分に照れ臭さを感じた。

 又一つ北海道に縁ができた。

hagiuda1 at 00:39|Permalink

2006年08月05日

■踊れ!西八夏祭り

 第5回を迎えた「踊れ!西八夏祭り」が西八北口一帯を特設会場として7月29、30日の2日間にわたり盛大に行われた。

西八夏祭り よさこいソーラン 5回目の今年はJR、バス会社、タクシー会社の皆さんの全面的協力をいただき、北口広場を全面通行止めにし、ブルーシートのにわか桟敷席も設けられ、参加者も観客も例年以上の盛り上がりをみせた。
 実は5年前、都議会議員として西八商栄会(山下会長)から商店街振興の相談を受け、都の「元気だせ商店街事業」の補助金活用を提案しわずかな原資で裏道を止めて始めたのがこの祭りの起源だ。八王子祭りが追分までの会場になった事も影響して、西八の出番がなくなるという背景もあった。
 不安なので一緒に手伝って欲しいと言われ、初年度は準備段階から会議にも加わり大会名誉実行委員長に祭り上げられた。それまであまり縁のなかった西八の方々だが、泣き言を言わず、前向きに取り組む土地柄は商人としての清清しさを感じさせ、なにかお手伝いをせずにはいられないオーラがある。2年目からは串田都議にも手伝ってもらい毎年売店まで出してもらっている。
 3年目には花火大会の日程変更に重なり、不安に思ったが、かえって富士森の花火客が往きに帰りに来場いただき相乗効果となった。千人町2丁目町会の皆さんも年中行事に位置付けていただき、石川町会長以下、全面的な協力に頭が下がる。町会、商店会、交通事業者、地域の人々の手作りで続けてきた理想的な地域興しのイベントと言える。

西八夏祭り 代議士 さて、肝心の商店振興だが少しずつではあるが祭りを通じての“西八馴染み客”も増え、年間を通じて成果も表れ始めたそうだ。来年に向け、長房トンネルの開通もあり、元八方面からの新しいバス路線の検討も始まり、市では交通体系の調査が始まるという。昭和44年の都市計画決定以降進まない再開発もこの5年間のがんばりで再調査の必要性が高まり、どうにか動き始めそうだ。狭い道にお店の並ぶゴチャゴチャした西八も捨て難いが、「西八らしさ」の残る開発なら又、皆さんが協力してくれると期待する。
 「いつまで背広を着てるんですか!?早くTシャツに着替えてくださいよ!」実行委員の皆さんから容赦なく声が掛かる。名前だけのはずの名誉実行委員長もここでは結構忙しい。

 さて来年はどんな宿題が出されるのか?進化する西八夏祭りでありたい。


hagiuda1 at 12:07|Permalink