2007年10月

2007年10月26日

■ひよどり山中30周年

 昨年から依頼を受け行っている中央大学総合政策学部での講義を受け持った。
中大講義
 2年生が対象の講義で今年はシンプルに「若者の政治参加」をテーマに自身が政治の世界へ入るきっかけ、政治家の一日、国会や党での仕事と学生時代の思い出をできるだけわかりやすく話した。昨年の細野教授に代わって今年は畠中教授のクラスだったが、畠中先生は私が国会へ来た時には総務省の審議官としてお世話になった縁もある。地方行政のプロを前に地方自治の話をするのも引けたが、「国会とは違う新鮮な勉強ができた」とお世辞を言ってくれた。役所の外郭団体への天下りではなく、豊富な知識と経験を地元の大学へ還元していただけることは実に良いことだと思う。学生達もまじめで、質問の中でも政治への理解と興味を持った感想をいただいた。若い人達に向けた政策や制度が貧しいと感じるのは、若い人達の政治参加が迫力がないからだと結んだ。少なからずまだ若者の代表である自覚を持って皆さんの要望も伝えたいので、是非学生の皆さんの感性も教えて欲しいとお願いした。

 終了後、追いかけて声をかけてくれた女子学生がいた。ひよどり山中の後輩だそうだ。

ひよどり山中学校 そのひよどり山中の30周年記念式典があり万全を期して出席を予定したが、同時刻に肝炎PTや内閣部会があり出席できなかった。私は中学2年まで二中で学び、中3に進学するとき新設校へ転校を余儀なくされた。今のような選択性などではなく、明確な学区で強制的に転校をした。実は生徒会長であり野球部のキャプテンでもあった私は未練たっぷりで、父の友人の家に住所を移し最後まで抵抗を試みたが、最後はその野球部の顧問の先生から説得を受け「お前がそういう態度を続けていると、転校を決心した者も残る者も動揺をする。ルールなんだから理解してくれ。俺も一緒に行くから」と言われ決心をした経緯がある。本当に先生は転勤をしてくれたが、残った野球部には迷惑もかけた。

 学校は文字通り山の上に建ち周囲は都立小宮公園に囲まれた、今思えばぜいたくな環境だが、子どもの頃は不便にしか感じなかった。

 野球部は創ったものの道具もなくグランドはでこぼこ。バスケ部もサッカー部も野球部も、来る日も来る日も校庭を均すのにタイヤを引きトンボをかけ石ころを拾った。校歌も校章もなく、制服もバラバラの学校は愛校心など感じない塾のような存在だった。何でこんなところへ来てしまったのかと、後悔とどこにもぶつけられない不満を持ったのは、私だけでなかったと思う。それでも卒業の頃には自分達の学校という思いも芽生え、今では父兄の一人として愛情を注いでいる。

 何もないところから政治家をめざした原点は、もしかしたらこの一年にあったかも知れない。前例をなぞらず自分達の知恵と努力で問題を解決するフロンティア精神は、政治の世界では大切なスピリットだ。今では周辺に多くの後輩が存在し、意外なところで「先輩」と声をかけてくれる。少子化の中、統廃合の対象となっているようだが、市教委は「山の上で立地に難があるもので・・・」と何も決まっていないと言いながら解説をする。「そんなこと最初からわかってんだろう」。ここは政治家としてではなく私情を込めて卒業生として反対を宣言している。

 遠い永田町から30周年を祝う。


hagiuda1 at 19:50|Permalink

2007年10月20日

■日本の前途と歴史教育を考える議員の会

 沖縄戦での集団自決における「軍の命令」記述を教科書検定会議が高等学校の教科書から削除意見を付した事で混乱が続いている。沖縄では11万人(新聞発表)の反対集会があり世論に配慮した政府の対応がかえって問題を複雑にした。
 本来、独立した教科書検定制度が政治介入によって歪んだ制度になっては困る。
 我国唯一の地上戦を経験した沖縄県民の苦労は私の想像をはるかに超えた悲惨さ、恐怖があったのだと思う。集団自決という痛ましい現実があったことは事実であり、非戦闘員である一般国民が手榴弾を手にすることは当時としてはそう難しいことではなく、住民による防衛隊のものなのか陸軍のものなのかは特定は難しいが「一つは敵に投げ、一つは自決に使え」と親から手榴弾を渡されたという証言があるのも現実だ。問題は先の教科書記述ではあたかも全ての自決が軍の組織的命令によって実施されたと誤った歴史にならないように、行き過ぎた記述を改めたもので自決の悲惨さを否定したものではない。
 既にいくつかの裁判により当時の背景も明らかになっており、後に遺族が援護法によって命令があったと言ってもらえれば軍恩年給が受給できると懇願され協力したとの存命の兵隊の証言も出てきた。そういう背景があって教科書の記述は変化してきた。
 捕虜になれば男は戦車の下敷きにされ、女性は輪姦の上、殺されるという風評が広がり捕虜になるぐらいならいさぎよく自決をという価値観が広がっていった社会背景も否めない。
 私は悲惨な沖縄戦をたった2〜3ページの教科書で教える事に問題があると思う。この際できるだけ正しい歴史を多く記述し、高校生達に戦争と平和を考えるきっかけにすべきと思う。
 何より検定制度は政治不介入の原則を守らなくてはならない。
ある研究所が11万人集会の航空写真をコンピューターで分析した結果18,600人という数字が出され、先日の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」で配られた。たとえ2万人でも大きな県民の声である事は否定しない。会では今後沖縄戦の検証をする小委員会を設置する事となり私が委員長になってしまった。但し、私達は裁判官ではない。
沖縄の真実と想いを正しく後世に伝えるため感情と事実を混同しないよう進めていく。


hagiuda1 at 12:45|Permalink

2007年10月12日

■自由民主で生稲晃子さんと対談

 厚労部会副部会長に就任した。与党肝炎対策プロジェクトチームでは初めて原告団、患者の皆様の話を聞く機会を得た。8名の代表は全て女性で出産時の止血剤や輸血によりC型肝炎に感染し、筆舌に尽くし難い苦難の人生を強いられた。残念ながら命を落とされた遺族として意見を申された方もいたが、いずれも無防備な国民が医療現場を信じて身を預けた結果であり、国に責任がないとは言えない。来週15日には大阪高裁で和解斡旋に向けての仲裁案の要望提出が迫っているが、厚労省は動く気配はない。いずれにしても訴訟はウォッチしながら、対策に向けての予算措置を急ぐ。

 難病対策ではパーキンソン病対策ワーキングチームで20年度予算の概算要求を決めた。今後は医療福祉分野での仕事が増加する。都立の松沢病院建て替えに伴う精神医療の今後の課題や、小児医療の充実施策等、都政との連携も増えてきて勘が戻ってきたような気がする。

いくいなあきこ対談 さて、そんな難しい課題が続く中、今週は心地よい仕事があった。
 我党の機関紙「自由民主」の「Face to Face」という企画で、女優の生稲晃子さんと対談をした。かつてはおニャンコクラブのアイドルだった彼女ももうすぐ40才。近年では時代劇や舞台でも本格的女優として活躍しており、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」ではレギュラー出演もしている。現在は1才半になる女の子の母親として子育て奮闘中で、そんな子供達との関係をテーマに色々とお話をした。気さくで素敵な方で、小金井出身、高校時代のグランドが八王子にあったことから度々八王子も訪れたこともあるそうで、思いっきりローカルな話題に花が咲いた。

 同世代(?)の縁で学生時代の思い出も語りながら、自分も父親になり世の中の価値観が変わった事や、安心して子育てができる環境作りに我々が努力している事など知っていただき、ほんの少し政治を身近に感じていただいたようだ。「是非子育ての楽しさをアピールして下さい」とお願いし、ご主人と六本木で鉄板焼佐吉を経営されているとの事で、近いうちお好み焼きでの再会を約束した。

 人使いの荒い党だが、たまには気のきいた素敵な仕事もあるんだと、今回ばかりは自民党さんに感謝します。

 記事は後日転載します。


hagiuda1 at 19:28|Permalink

2007年10月06日

■小泉総理6年ぶり復帰?

 私が所属する政策グループに6年ぶりに小泉さんが戻ってきた。何も知らずにエビピラフを食べていると急に歓声が上がり拍手が沸いた。当日は町村会長が会長職を返上し、派閥は中川(秀)先生、町村先生、谷川先生の代表幹事による集団指導体制になるというやや悩ましい日だったが、どなたかの演出で小泉元総理が部屋に入ってきて和やかな雰囲気に包まれた。町村会長が官房長官に就任した事により閥務に影響が出ないようにとの説明だが、内情については各誌が論評している背景がある事は否めない。
 我派は森総理から始まり小泉、安倍、福田と4代に渡り総裁を輩出している言わば主流派である事は事実だが、だからといって特別恵まれた事があるわけでもなく、返って遠慮しなくてはならない場面も多い。特に党内人事等では副大臣、政務官は最後に回ってくるので若手の間では愚痴も多い。それでも非主流時代と比べるとはるかに羨ましい状況のようだ。上席に並ぶ幹部を見て改めて歴史ある会に席を置いている事にありがたさを感じた。

 さて小泉総理は自身の若い頃、派閥政治全盛期の思い出、中選挙区時代のライバルとの関係を小泉節で話され最後は「民主党は反主流派のつもりで付き合え」とアドバイスした。町村会長は「お帰りなさい」森名誉会長は「いらっしゃい」と声をかけ笑いを誘った。
 確かに派閥は当時とは役割も姿も変え穏やかな仲良しグループのようにはなったが、いざとなると同志的連帯が大きな力になる。
 思えば学生時代、都議選の応援打合せで度々出入りしたのが私の清和会との出会いだ。ウーパールーパーのいる水槽の部屋で福田赳夫会長と交わした国会議員になるとの約束を実現した。もっともその頃はそこまでの決意はなく、福田先生が熱心に仰るのでついつい頷いていただけなのだが、以来ご縁は続き、本当に一員となってしまった。その後、亀井先生、平沼先生との分裂もあり、力を落とし長い間非主流の悲哀を味わってきた。
 これだけ旧体制に党も戻ったのだし、派閥政治の悪いところは払拭されたのだからあえて派閥じゃないという説明をする事も無理がある気がする。
 堂々と活動し、グループの価値を高めていきたいと感じた。


hagiuda1 at 11:47|Permalink